【新唐人2011年10月4日付ニュース】数々の外交公電の暴露で話題のウィキリークス。中には、1989年の天安門事件で市民虐殺に関与した兵士の告白もありました。当時、100人の兵士が学生に殺されたとのうわさを聞いたため、群衆に向かって無差別発砲をしたそうです。報道をご覧ください。
この外交公電は1990年3月26日、上海駐在のアメリカ領事館によって作成されました。それは、ある領事館の職員が浙江省の村に帰省した際、その村の女性から聞いたという天安門事件に関する記録です。
この女性の息子は天安門事件当時、第38軍の兵士でした。1989年6月4日、息子は他の兵士とともに、天安門広場で空に向かって警戒射撃をする予定でした。その後、100人の兵士が学生によって殺されたようだとのうわさを聞きます。部隊が人数を確認したところ、確かに100人余り足りませんでした。
これに怒った兵士たちは、上司から発砲命令を受けると、機関銃で群集に向かい無差別発砲しました。この発砲だけで、千人余りの庶民が死亡。しかも、遺体は兵士によってガソリンを撒かれて焼かれた後、ヘリコプターで運ばれました。
実は、殺されたといわれていた兵士100人は全員、部隊にいました。だまされたとはいえ、丸腰の市民に発砲したこの兵士は、自責の念に苦しみました。
天安門事件で、両足を戦車にひかれて切断した方政さんは、兵士が突然凶暴になり、学生を戦車でひき殺したのはなぜかと、長年ずっと自問してきたそうです。
天安門事件の被害者 方政さん:「兵士の告白から分かるように普通の兵士にも良心があったはずです。人民から愛されてきた兵士たちです。ではなぜ 庶民に無情に発砲したのか、二つの要素があるでしょう。まずは絶対的な命令を受けたため。もう一つが共産党内部 軍隊内部で、誰かがあるいはあることによって、兵士に庶民や学生への憎しみを植え付けたのでしょう」
まず憎しみを作り出してから虐殺を行うのは共産党の常套手段だと方政さんは指摘。当時、兵士が“暴徒”に殺された事件も、その一つではないかと述べます。
天安門事件の被害者 方政さん:「いわゆる兵士を虐殺した。“暴徒”ですが、もしかしたら潜り込んだ私服警官や党のスパイかもしれません。たとえばエジプトの事件では多くの私服警官が捕まりました。警官は衝突を起こして、弾圧の口実を作っていたのです」
外交公電によると、兵士は虐殺の後の休暇期間中、村で誰にも軍隊のことは話してはならないと命じられていたそうです。
天安門の母(天安門の遺族会) 張先玲さん:「何はともあれ、平和的なデモの状況下で党は丸腰の庶民を殺しました。私の子も殺されました。これは重罪です。事件の関与者 、事情を知る人には真実を話していただきたい。そうすれば、この真相が明るみに出ます」
これまでずっと当局は、天安門事件での虐殺に関する情報を封鎖してきたため、正確な死亡者数は不明のままです。天安門事件の学生リーダーだった封従徳さんは、長年の調査から3000人ほどが殺されたと推測。さらには、1万人が亡くなったとも言われます。
新唐人テレビがお伝えしました。
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